建築家伊東豊雄

都会と地方を繋ぐ暮らし方

内閣府の調査では、東京に住んでいる若い人たちの4割、20代だと5割近くが「機会があれば地方で暮らしたい」と思っている。東京で一生暮らそうとは思ってない。仕事や住居があれば地方へ移る可能性が大きい。これからは都会と地方が平行につながる社会が面白い。

日本の設計は大規模系と地方建築で棲み分けができている

月尾 伊東さんは大学時代から設計能力に優れ、卒業設計は最優秀作でした。卒業後は、菊竹清訓先生の事務所に入られ、若くして独立されています。
独立当初は仕事がなくて大変苦労されたようですが、若い時から建築学会賞なども受賞されていましたし、21世紀になってからはRIBA(イギリス王立建築家協会)のゴールドメダル(2006年)、高松宮殿下記念世界文化賞(2010年)、建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞(2013年)、UIA(国際建築家連合)のゴールドメダル(2017年)などを次々と受賞され、世界一流の建築家として活躍しておられます。
2016年に実現した台湾の台中国家歌劇院(オペラハウス)は完成に約10年かかった大作ですが、これまでは意外に大建築の設計は少ないという印象があります。それはあえて大作を選ばれなかったのか、たまたま依頼が来なかったからなのか、どちらでしょうか。

伊東 1990年代から30年近くは日本の公共建築を多く設計してきました。商業建築はあまり得意ではないということもあり、特に大都市からは依頼が来ませんでした。ただし、アジア諸国では、公共建築の仕事も競技設計への参加依頼があるうえ、商業建築や集合住宅のプロジェクトの依頼も結構あります。
日本では我々のような独立した個人の建築家は何故かデベロッパーには嫌われているようです(笑)。僕たち建築家が拒否しているわけではないのですが、棲み分けができている状態で、僕の仕事は地方都市の公共建築が中心になっています。ですから、地味な仕事をしているように見えているのかもしれません。

月尾 超大作の台中のオペラハウスはきわめて施工の難しい建物で引き受ける施工会社がなかったそうですね。

伊東 そうです。本当は日本の建設会社に造ってほしかったのですが、台湾の公共建築は工期が非常に厳しく、工期が伸びると高額のペナルティが課せられるので、日本の建設会社に避けられてしまいました。台湾でもなかなか手を挙げてくれる建設会社がなく、1年半ぐらい白紙の状態が続きました。もう実現しないかと思った頃に、台湾のベスト10くらいに入る建設会社が手を挙げてくれ、奇跡的に実現しました。

「台中国家歌劇院」 「台中国家歌劇院」

軽やかな設計が伊東建築の神髄

月尾 伊東さんの若い時代の著書『風の変様体―建築クロニクル』(1988)や、最近の『日本語の建築~空間にひらがなの流動感を生む』(2016)を読むと、重厚な建物よりは軽やかな建物を建てることを意識してこられたと感じます。話題になった「シルバーハット」(1984)などは、本当にふわふわと頼りないという感じです。
岐阜の「みんなの森 ぎふメディアコスモス」(2015)も木造の屋根で重量感がない。若い頃から意図して「軽さ」を追求されてきたようですが、どういう思想があるのでしょうか?

伊東 最初はそうでもなかったのです。80年代に入って日本がバブル経済の時代を迎えた頃、東京では建築は紙くずのような存在でした。一度も使われていない建築物が壊されて土地が売られてしまうケースさえありました。 本来、日本の建築は「壊して建て直せばいい」という精神性があります。だから僕もそういう日本の建築の持つ精神的な仮設性、軽さを表現したいと思い、80年代はそういう傾向で設計していました。しかし、80年代の終わりぐらいから公共建築の設計に参加できるようになり、90年代は日本の地方都市の公共建築も依頼されるようになりました。
そうなってくると「軽い」と言っていては相手にされないこともあり、もう少し別の戦略でいかないと太刀打ちできないと思うようになりました。
月尾さんも審査員だった「せんだいメディアテーク」も綺麗な光のチューブのような存在を作りたいと思って提案したのですが、コンペティションに勝った翌日から、住民や自治体から「こんなものはいらない」と猛烈に反対された(笑)。1年間、針の筵に座っているようで。やめてしまおうかと思う日々でした。

月尾 どういう点について批判があったのですか?

伊東 誰も見たことがないチューブという存在でしょう。斜めの柱が何本も交差している建物では絵も展示できないと批判を受けました。エレベータや階段は必要だから、普通はどこかにまとめて設置するわけですが、それがバラバラにあるのが気にくわないという反対運動が盛り上がり、地方の新聞にも大きく取り上げられました。
それなら「押しても引いても動かないチューブ」にしようと思いました。この時の経験がひとつの転機になって、造るものが少し変わり、その後の公共建築では比較的強いものや重いものも設計しようと考えるようになりました。

「せんだいメディアテーク」 宮城県観光課 「せんだいメディアテーク」 宮城県観光課

生んだ子を見守るのも役目

月尾 「せんだいメディアテーク」は公開の競技設計で、磯崎新さんが審査委員長、僕や藤森照信さんが審査員でした。僕はすでに建築から遠ざかっていましたが、300以上の応募作品のなかで伊東さんの作品は最優秀作に確実に選ばれるというほど抜群の作品でした。意外だったのは、完成したものは重厚なものになって、意図した軽やかさが出なかったという感じがしましたが、それでも当時の建築の流れのなかでは違う方向を示した画期的な作品でした。

伊東 磯崎さんが「メディアテーク」という、日本ではほとんど誰もわからない名前をつけられ、それが結果的には凄くよかった。
最初は「わからない名前はやめてしまえ」ということも含め、反対を受けましたが、途中から僕は「これまでの文化施設とは違う」ということを主張しました。結果として全国から行政の人たちが見に来られるようになったのですが、次の設計依頼はまったく来ませんでした(笑)。

月尾 いまだに毎月1回「せんだいメディアテーク」から行事案内が届きますが、伊東さんも運営に関係しておられます。建築家は自分が生んだ子供であっても完成してからはあまり関係しないのが一般ですが、伊東さんのように、自分の作品にずっと関係することが、新しい建築家像ではないかと思います。
僕も短期間だけ建築業界にいましたが、当時の前川國男さんや丹下健三さん、伊東さんの恩師の菊竹清訓さんなどは近付きがたい雰囲気でした。しかし、最近はメディアに出る建築家や建築以外の活躍で有名になる建築家も増えています。建築家は社会的な存在になってきたのではないかと思います。
若い頃に象徴的なことがありました。丹下先生が有楽町にあった旧都庁を設計されました。高さ制限がある時代でしたから、床面積を増やすために天井を低くして階数を増やし、廊下も狭い建物でした。新聞記者が都庁の職員に新しい都庁の感想を尋ねたところ「使いにくい」という意見があったので、その記者が丹下先生に質問したところ「私の建物を使いこなせない都庁の職員が駄目なのです」と言われました(笑)。それくらい建築家は自分の作品という意識が強かった。しかし現在では建築家の役割は大きく変わってきたと思います。

伊東 変わってきました。僕が大学で建築を学び、菊竹さんのオフィスに入ったのは60年代です。時代は日本経済が右肩上がりで、1964年に東京オリンピックがあり、1970年に大阪万博があり、建築家を大切にした時代でした。国家をあげて建築家を養成していたと言ってもいい。丹下さんはそこで勢いをつけていかれた。
70年代は僕が事務所をつくった頃がひとつの境目でした。オイルショックもあり、70年以降は日本が閉塞的な状況に向かい、磯崎さんは、それまでの建築家の姿勢を批判するようになられました。

月尾 磯崎さんが大阪万博の会場の一部を設計するときに僕も手伝いましたが、磯崎さんは参加しながら大規模プロジェクトには反対と言っておられた(笑)。

伊東 僕も菊竹さんとランドマークタワーを設計しながら、夜になると全共闘の仲間から呼び出しを受けていた。そういう二重の思想のなかにいることがつらい時代でした。
70年代は仕事がなかったけれど、自分で仕事を始めざるを得ない状況があって事務所を開いたのですが、そういう時に磯崎さんが社会を批判するスタンスで建築の役割を考えはじめ、僕たちもそれについていき、同世代の連中と大きな建物を造る世界を批判していました。だから我々時代の建築家は、自治体や国からは、どちらかといえば疎まれる存在になってしまったのです。
その環境を引きずりながら、一方ではそれが自分のエネルギーになって建築を造り続けてきたので、当然、丹下さんなどのメタボリストの世代とは違った建築家にならざるを得なかったわけです。

地方を活性化させる建築を創り 地方とともに生きる

月尾 前川・丹下・菊竹世代が第1世代、伊東さんたちが第2世代になると思いますが、伊東さんは最近「台中国家歌劇院の完成をもって40年にわたる建築家としてのキャリアの第1期が終わりつつあると感じている」、「空間至上主義でこれ以上の作品を生み出すことはもう想像できない」と言われています。つまり、次の時代に向かって動き始められた。
日本一美しい島・大三島を作るプロジェクトを始められたのもそのひとつですし、東日本大震災のあとには陸前高田で「みんなの家」を造るなど、新しい方向に向かっておられますが、どのような心境の変化でしょうか?

伊東 僕たち以降の建築家は、なかなか自治体に歓迎されない建築家でした。ただし、日本の建設技術は素晴らしく、海外より精度が上回っている。そういう建設技術や伝統に助けられているおかげで、僕らの建築は成り立っている。
世界的に評価が高い「プリツカー賞」を受賞する日本の建築家もたくさんいますが、国内では、それほど評価されていない。そのギャップをなんとかしなければいけないと僕は思い続けてきました。
そんなときに3・11の震災が発生し、こういう機会に「建築家も役に立つ存在だ」ということを社会にアピールするべきだと思いました。そこで若い人たちと一緒に何年か被災地に通いました。それが大三島の仕事に関わるきっかけにもなっています。
これまでは建築とは都市の建築を考えることだと思っていましたが、被災地では、近代主義の恩恵をほとんど享受していない人たちがいて、それでも力強く生きているし、それが魅力だということに気付いたのです。ところが、彼らが住んでいた街が津波で消えてしまったので、僕たちが何か考えられないかと思い、さまざまな提案をしたわけです。ところが国や県の方針があって、僕たちの提案はなかなか受け入れられない。そこで自分たちでお金を集め、仮設住宅や公園の中に人が集まるための「みんなの家」を造りました。被災地ではそれが精一杯でした。
しかし、もう少し何とかしたいと思い、大三島という島に通いはじめました。ちょうど震災のあった年くらいからです。たまたま今治市が僕の建築ミュージアムを大三島に作ってくれることがきっかけになり、プロジェクトが始まりました。現在も月に1度は通っています。

月尾 地縁も血縁もない大三島に伊東さんのミュージアムができたのは不思議だったのですが、あれはどういう経緯で実現したのですか?

伊東 丹下さんの育った土地だから、僕のミュージアムなんか造ってもらうのは大変おこがましいと、話が出たときはかなり迷いました。
最初、島に自分のミュージアムを造りたいと考えていた実業家(所敦夫氏)が1億円を寄付され、その設計を頼まれたのです。設計を進めていくうちにその人と意気投合し、僕が「若い人を育てることをこれからの仕事にしたい」と言ったら、「ここでやればいいじゃないか」ということになり、さらに「あなたのミュージアムにしていい」と言われました。これは大変なことだと思っていたら、今治市がそれに協力することになり、これは千載一遇の機会だと思ったのでお受けしたというのが経緯です。

月尾 大三島を作るプロジェクトでは建物だけではなくワイナリーを造って、地元でビジネスを始め、家にも地元の人をたくさん集めて文化活動されるなど、相当時間を使っておられます。

伊東 そうです。島はこれまで基本的に何の開発もされてきませんでした。少し前までは人口1万2000人だった島が今は半減して6000人になっています。しかもその半数が65歳以上です。日本全国の高齢者人口比率の平均が25パーセントですから、倍ぐらいの高齢化率です。
ほとんどの人がみかんを栽培してきましたが、高齢化もあるし、みかんのビジネスが成り立たないということもあって、栽培を放棄しています。島へ行くと道端にみかんがゴロゴロ落ちている状態です。そこで畑を借りて少しずつブドウ畑に変えていったのです。大三島でもワインが造れるということになれば、若い人が魅力を感じて移住してきてくれるのではないかという期待からはじめました。
3年が経過した去年初めて、ほんのわずかですが試験醸造することができました。地元の若い男性が頑張って畑を拡張しくれ、1ヘクタール近くにまでなりました。今年は1000本くらいボトリングする予定です。まだ醸造は外に出していますが、来年にはオーべルジュと醸造所ができそうです。そうすれば本当の意味で大三島ワインができることになる。オリンピックの頃には少し外に出せるかと考えていますが、建築家とは関係のない仕事になっています(笑)。

精度よく美しい日本の建築にアジアの自然観を加えるべき

月尾 先ほどアジアと日本は違うという話もありましたが、最近の日本の建築家は国際的にも評価が上がっています。
例えば「プリツカー賞」は日本人が6名も受賞し、丹下先生や安藤忠雄さん以外に妹島和世さんや伊東さんも受賞されています。日本の建築家が世界で高い評価を得て、海外から注文が来るようになっています。
かつて海外からの依頼がほとんどなかった時代には、丹下先生くらいしか海外で活動しておられませんでしたが、現在は若い人も含めて日本に大きく注目が集まっています。その背景は、どのようなことだと思われますか?

伊東 ひとつは日本の優秀な建設技術です。日本でなら精度のよいコンクリートが打てるが、海外ではお金をかけないとできない。日本の職人は難しければ難しいほど「俺がやってやる」と頑張り、精度もよくて美しい建築物を造ってくれます。
普通は海外で仕事をするときは設計も変えて、少し精度を落とします。そうでないと費用がかかりすぎて実現しません。
もうひとつは、国内と海外では伝統や自然の捉え方が違うことです。
日本はアジアのなかでは最先端技術を導入し、近代化の最高峰に行きついています。近代化は飽和状態にあり、その先をどうしていけばいいかと悩んでいる時代です。しかし、日本には近代以前の日本の伝統技術が存在している。
アジアの他の国はまだ近代化の最中というときに、日本だけはすでに近代技術の最高位にあって、そこに伝統表現や伝統技術を加味して海外から評価されています。
ただし、僕は近代化が飽和状態だというときに、すぐに「日本の伝統」を持ってくるのは安易な考えで、縄文時代まで遡って大陸に繋げていく発想が必要ではないかと考えています。日本というより、むしろアジアの自然観を反映した建築を日本が先導して切り開いていくべきだと思います。そうすれば、アジアの人たちも一緒になってやろうという気になるでしょう。「日本は伝統と共存できるからスゴイ」と言っている限り、長くは続かないのではと思います。

月尾 お話をうかがっていると、 大きな変化がふたつ起こっているように思えます。
明治以来、日本はお雇い外国人を招いて、ヨーロッパなど当時の最先端の技術や制度をとり入れて建築やさまざまな分野で近代化を果たしました。それが1980年代になって、大きく変わり始めた。伊東さんがやっておられるように、今度は自分たちが蓄積した力をアジアへ伝えるようになっている。これがひとつです。
もうひとつは、明治以降、ほとんどの巨大投資は大都市に集中してきました。その結果、一極集中が起こり、大三島や陸前高田などの地方と大都市の間で格差が開く状況になっている。
伊東さんをはじめとする建築家が、そういう状況に向き合い始めておられる感じがします。
かつては建物が完成したら建築家の役割は終わりでしたが、最近は完成した後も付き合うという形に変わっています。建築に関わる立場として、どういう役割を果たしていこうと考えておられるのでしょうか。

都市と地方が平行に繋がる面白い社会を

伊東 もともと僕の仕事は地方都市の公共建築が多く、完成後も地域と付き合ってきました。「せんだいメディアテーク」が最初ですが、岐阜の「みんなの森 ぎふメディアコスモス」でも40万都市で年間120万の人が訪れています。このような日常的な賑わいを作り出すような公共建築が地方都市で実現しています。
つまり、建築物に限らず、地域での新しい役割の可能性がたくさんあるのではないかと考えています。もちろん東京の魅力は当分続くでしょうが、これからは東京一極ではなく、地方と東京との間にコミュニケーションが成立するような関係を作れるのではないかと思います。
内閣府の調査だと、東京に住んでいる若い人たちの4割、20代だと5割近くが「機会があれば地方で暮らしたい」と思っている。これはすごい割合で、かつての若者とは違ってきています。
東京へ出てきても、そこで一生暮らそうとは思ってない。そういう人たちは仕事や住居があれば地方へ移る可能性が大きい。僕も東京だけではなく、たとえば大三島にも別荘ではなく家を持ちたいと思っている。半分はそこでも仕事ができるだろうと思っています。すでに土地は買っています。タダみたいに安いですから(笑)。都会と地方が平行に繋がっていくような、そういう社会がこれからは面白いと思います。

月尾 この対談は、日本テレネットが立ち上げた「スマートライフ研究所」が、今後どんな活動をしていけばいいかについて、ヒントをいただく機会でもあります。
伊東さんが設計事務所を始められたとき、事務所の名前はアーバンロボットを思わせる「ウルボット」でした。丹下先生の事務所が「ウルテック」で、そのパロディのような名前でした。
現在は情報技術が社会を動かす最先端技術だと思いますが、伊東さんは事務所を立ち上げた当時から最先端技術に関心を持っておられた。そういう最先端技術がどう建築に影響していくかについてまずお聞きしたいと思います。
また「スマートライフ研究所」は、最先端の情報技術で新しい社会を作ろうと考えているので、最先端技術と長い歴史がある伝統的な建築技術との関係をどうお考えになるかについてもお聞きしたい。

自然と一体化した暮らしが今後の日本にも求められる

伊東 コントロールの技術ですね。建築のなかでも設備設計は、以前から「ここにこういう機械を入れれば空調は大丈夫です」という時代でした。しかし現在では、設計の最初の段階から光の分布や空気の流れのシミュレーションを繰り返します。すでに建物が使われているかのように、光はこんなふうに入って、風はこう流れてと確認しつつ設計が進んでいきます。いかに環境を制御していけるかが大切です。そういう技術が発達しているにも関わらず、相変わらず断熱性をよくするなど、建築空間を自然と切り離す方向で現在の設計は行われており、完全に時代遅れです。
日本人がかつて自然と一体化して暮らしたような、そういう暮らし方をコントロール技術を駆使して実現できる時代になっているのにそれが実現していない。そういう自然との一体化が面白いところで、新しい公共建築は少しずつそれができるようになってきています。
例えば日本には何百万軒もの空き家がありますが、断熱性を上げないと寒かったり暑かったりして暮らせない。そうではなくて、そのままそこに最先端の技術を投入しながら昔のような暮らしができることが大切です。そういうことにいかに技術が使われるかが一番関心のあることです。逆に自然エネルギーを活用するようなことも可能になってきます。
島の活性化の問題も自然と建築をどう結びつけられるかが自分にとっての最大のテーマです。それができるようになれば、「人間も自然の一部だ」というアジアの人たちの感覚をとりいれた建築が可能になります。最先端技術だけでは、なかなか「アジアの建築だ」と言えない。そこをクリアすることが僕にとっては大きなテーマです。

月尾 私の理解だと、これまでの建築は、極端に言えば環境を遮断して内部を快適な空間にしていた。建物の表現も周りの環境とは馴染まない壮大なものを造り、環境とは切り離すような方向でした。しかし、例えば岐阜の図書館も内部と外部がうまく繋がった建物になっている。近代の建築の方向とは違う方向に向かっています。

伊東 そうですね。ギリシア時代から西欧では、建築は自然から切り離されていました。人間は科学も使える存在だと考え、ある種の権威的なものとして建築が造られてきました。それが丹下さんの時代にも続いていたのですが、そのような時代は終わり、建築家も住む人もひとつになって一緒に活動して、一緒に造って、一緒に使っていく、そういう時代になるべきだと思います。

月尾 スマートライフ研究所もそういうことを目指したプロジェクトを、京都北部の里山で始めようとしています。それは単に建物というよりは、生活をどう作り出すかということを目指しています。野菜も作りながらそこで生活するということも始めています。
今日、伊東さんに説明いただいた「変わり始めた建築の方向」を、地域というもう少し広い範囲でやろうとしています。ぜひ今後いろんな形でご指導をお願いしたいと思います。

伊東 京都は文化度も高いし、若い人や海外の人もたくさん来る町です。大三島には大山祇(おおやまずみ)神社という神社があって、かつては船で何十万という人がお参りに来ていたけれど、現在は近くまで車で来てそのまま他へ行ってしまう。参道などはシャッター街になっています。それをなんとかしたいと思っていますがなかなか難しい状況です。

月尾 しかしそれを改善するために活動しておられるということは、大変参考になります。ありがとうございました。

  • 『シルバーハット』

    東京都中野区にあった伊東氏の自邸。1986年、日本建築学会賞作品部門を受賞。鉄筋コンクリートの柱の上に鉄骨フレームの屋根を架け、中庭の上部に吊られた開閉可能なテント部分で風や陽ざしを調整することで、半屋外の居住空間として利用できる。

  • 『台中国家歌劇院』

    台湾台中市にあるオペラハウス。2005年の国際コンペティションで伊東氏が選定される。複雑で難度の高い設計のため、何度も入札が流れ着工したのは'09年。伊東氏の設計事務所が、台湾の施工会社に一から工法を教えた。竣工までに7年を要し’16年にオープンした。

  • 『菊竹清訓』

    日本の戦後を代表する建築家。1928~2011年。黒川紀章らとともに、「建築と都市はダイナミックに変化すべきだ」というメタボリズムを提唱する。江戸東京博物館(1993)、九州国立博物館(2005)など多くの作品がある。また大阪万博「エキスポタワー」、沖縄海洋博覧会「アクアポリス」、愛知万博の総合プロデュースなど、国内の国際博覧会にも関わった。

  • 『みんなの家』

    東日本大震災後、複数の建築家たちが進めている復興支援プロジェクト。伊東氏、妹島和世氏らが中心となり、仮設住宅での暮らしを余儀なくされた被災者に、「集い、語り合えるささやかな憩いの場を」という理念のもと、被災地各地に集会所を建設する。

  • 『せんだいメディアテーク』

    ギャラリー、図書館、映像センターなどを擁する仙台市の複合施設。美術や映像文化の活動拠点であると同時に、様々なメディアに関連した活動を支援している。フランス語を由来とする「メディアテーク」は、「メディアを収める棚」「視聴覚資料室」を意味する。各フロアーをチューブと呼ばれる樹状の組柱が貫き、固定壁が非常に少ない。2001年開館。

  • 『みんなの森
    ぎふメディアコスモス』

    2015年に開館した、岐阜県にある岐阜市立中央図書館、市民活動交流センター、多文化交流プラザ、展示ギャラリー等からなる複合施設。設計者は約70名の応募のなかから、1次審査、2次審査を経て公開プレゼンテーションによる最終審査で伊東氏に決定した。山並みを連想させる、波打つような木造屋根が特徴で、岐阜産の檜が使用されている。